雨上がりの傘 ⑩ 翼

この日が来た。

まだ朝の冷たい空気の残る空港に着いた。
大きなスーツケースと
ギターケースを抱えて
前を歩く息子の背中を見つめる。

いつの間にこんなに大きくなったかな。
物差し1つ分、頭が高い。

この半年、この日の準備のために
駆け抜けてきた。

もはや息子の翼は滑走直前だった。



「俺、留学したい。」

いつも突飛だ。
中学3年の3学期。
市の留学推進事業の一環として
英語力をつけるために学校の授業外で
週2回の外国人講師による英語の授業が
開かれることになった。
息子の学校がその会場になっていた。
息子も参加しており
その中で留学説明会があったらしい。

「高校で留学した方が、
 英語が身につくらしい。
 それに、高校生が留学すると
 ホームステイになるから安全らしいよ。」
また、始まった。
言い出したら止まらない。
 「何も高校で行かずとも大学になって
  からでも良いんじゃないの?」
   「だから、発音とか喋ることを考えるなら
  少しでも早い方がいいんだって。
  耳が大事だから、若い方がいいんだよ。」
 「海外とか行ったら受験勉強とか
  やりたくなくなるかもよ。
  帰ってきたくなくなったらどうする?」
    「いや。ちゃんと勉強もするし、
  期間が終われば帰るし。」
ずっと続く押し問答。
  「とにかく、また保護者向けの
   説明会あるから一回聞いて!」
 多分、行くまでこの会話は終わらないから
 しぶしぶ了解した。

「どう思う?」
夫はいつだって、子供のやりたいことには
賛成だ。
「俺も高校で行きたかった。
 親は大学になってから行け、と言ったけど
 大学に入ったら意外と忙しくて
 その道外れるの怖くなるんだよ。
    だから結局行けなかった。」

同じ遺伝子を持つ父親は、またしても
かって同じことを考えていた。

遺伝子、濃すぎるぞ。


でも、その実どうなんだ。
高校のレベルは?
休学の扱いは?
わからないことだらけだ。
説明会で確認するしかなかった。

EILという戦後の世界平和の橋渡しにと
交換留学を推進する組織の留学説明会だった。
EILを通じて高校生の時に留学され。
大学を出て海外で仕事をされた方が
その組織の幹部となられ、
今回の説明会でお話しをされた。

高校生ならホームステイ先は
監督責任があり、
国際交流の橋渡の役目を理解された
ご家庭が受け入れてくれるから、
非常に協力的であり安心だとのこと。
驚いたことにホームステイは
無償での預かり。
生活費は身の回り品や、昼食、外食代は
本人持ちだが、
朝食、夕食の食費、滞在費は
ホームステイ先の好意だ。

進学先の高校は基本的に
現地の公立高校で授業料も無料。

ホームステイの希望地(国レベル)は指定
できるが、ステイ先の地域は指定できない。
この組織の意向に賛同していて、
その時に受け入れ可能な登録先が
ホームステイ先になるということだ。

行き来の渡航費用、最初の一月間の
語学学校の授業料、宿泊費。
そして各国における手配費用、
いろいろな諸費用として
まとまった金額を支払うが
一般的な私立高校、大学での留学から
考えるとかなり格安になると言う。

確かに大学生で一人暮らしを
始めてから留学するよりは
費用対効果もいい気がする。

ただ、希望者はEILの英語能力の
試験は受けなければならなかった。

国により学期のスタートが
違うので渡航先により出発時が変わるが
いずれにしても1年休学扱いで、留年になる
ことだけは間違いなかった。

1年遅れることに不安はないのかな。
友達関係とか。
尋ねれば、
「全然。」
そんな繊細な感情は持ち合わせて
いないようだ。

簡単にOKを出すのもシャクなので
留学前までに英検2級を取ること、
成績をクラスで10番内に入ること、
と、条件を出した。

そのくらい!

やる気満々のご様子だった。
息子の性格を考えれば
なんでも体験しないと気がすまないのは
わかっていた。

そしてそのための課題をクリアするのも
むしろ楽しめる。

その課題をクリアさせることで
私の複雑な気持ちを
納得させたかったのだ。

高校1年の5月にオーストラリアを希望にして
申し込みをした。
6月に英語能力の試験。
1回目は3点足らずに落ちた。
2回目で合格した。

出発は翌年の1月と決まった。
1ヶ月はシドニーで語学学校に通う。
ホームステイ先はまだ決まらなかったが、
山ほどの申請書類が届いた。
どれも英語での記入だ。
頭を抱える作業だ。

ネットで調べながら、住所の書き方から
始まる。
家族構成、家族の仕事、
写真、趣味まで。
簡単な言葉も英語になると
並べ方さえわからない。

息子の健康診断、予防注射は数種類あるから
期間を空けなければならず、
予定を立てて受けた。
他県にまで出かけて受けなければ
ならない検診もあった。

県からも一部補助金が出るため
必要申請書類と息子の留学に対する想いを
込めた作文の提出。

一つの書類の束を送ると
次の書類が送られてくる。

未成年が外国に住むって
大変なことなのだと知る。

常に書類の期限が頭にあった。
息子もスケジュールを意識して
過ごすようになった。

9月に受けた英検2級は
約束通り合格した。

中間試験もクラスで10番以内を
クリアした。

息子の本気は十分伝わっていたし
もう、文句も言えないのである。

忙しさが寂しさを紛らわせた。

一雨ごとに冬が近づいてくる。

息子のいない生活を考えないようにしていた。




                つづく。

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トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。