際 (きわ)

中秋の名月は美しかった。
いつになく明るい
夜空を見上げて
足元は裸足で空池の
砂利の上でアーシング。


ネムちゃんも月夜の
お散歩を楽しんでいた。


この季節の夜風は
ひんやりとして
厚めの長袖をはおり
少し温りすぎた身体を
心地よく冷やしてくれる。


早いものでもう10月
もうずっとここに住んでいたような
気すらしてくる。




月夜の庭を眺めながら

「際」きわ

について考えていた。


 きわ
きは 【際】
もう少しで別の物になる、その物のすぐそば。
すれすれのところ。ある事のすぐ前の時。



空池の周りには山に見立てた
石が配置してあった。



ここ数ヶ月、庭とともに暮らして
素人なりに
景色の美しさは

際にあるのでは
と感じていた。


地面から立ち上がる木々の根元
石の合間を埋める低木の枝
地面からのぼる石の輪郭


石から木へと
山の稜線のように
その際(きわ)の陰影が
全体の景色の美しさに
寄与していく。



全体を
際立たせるのは
細部のきわ、
という
書けば当たり前のことだけれど



わたしにとっては
なかなかな
気づきだった。



そうなると
草引きだけではおさまらず


ツツジの枝葉の隙間から
伸びているシダや
ツルモノが
その際(きわ)を曖昧にしていることが
気になりだす。


鎌を持ち出して
シダやツルモノを
刈っていく。


だんだん職人化している
気もするけれど


無心になる行為の
その後の爽快感と
場が整っていく
充実感は
何にも変えがたい。



際 きわ



なんだかとても
意味深い気がする。




際(きわ)は人にとっては
きっと
境界線だ。


コロナでは言われる
ソーシャルディスタンス
ほど
目に見える距離ではなく


心の境界線だ。


例えば

家族として
同じ景色の中で暮らしていると
一つの対象に対して
親が感想を述べると
子供はまずは受け入れる。
そういうものだ、と
同感する。
だんだんに
それが自分の感じたことだった
かのように感じていく。


でも成長とともに
感じ方は
それぞれ違ってきて


ある日
自分はそう思わない、
という意識もでてくる。


同じだと思っていたけど
そう感じていなかった。

その感じ方の際の部分が
自分の中にはっきりしてくる。



その際に気づいていくこと、
それが
「わたし」を育てるためにも
大事なことなんじゃないか。




穏やかに過ごすことの
増えた日々の中で


誰にも強制しない、
誰からも強制されない


その心地良さは


人の際(きわ)を
明確にしていくのでは
ないかと思う。

 

今にして思えば
子育ての期間中
家族という括りに
固執していたし、


同じ向きに向かって
漕いでいかねばならぬ〜
と思い込んでもいた。



ある時期は
そういう括りも
たしかに
必要だった。




ただ、
夫と2人になってみると
そんな括りは
なかったもののようになった。




改めて思うと
幼稚園から
学校の期間は
少し長すぎる気もする。



それゆえに
親も子供たちに
時間の括りを
強制せざるを
えなくなる。



この強制する、
される時間は
子供だけでなく
親にとっても
実は結構、
窮屈なものだったと
今は思う。



本当は
自由な時間を
取りあげたくは
なかった。



括られる時間を
もっと短くして
子供たちを野に放ち
やりたいことに
めいっぱいやらせてみたら



子どもたちは
どんなふうに
成長していくのだろう。



あなたと
わたしの際を
どのように
設定していくのかな。



そんな学校も
四国のどこかに実際にあって
子どもたちが
それはもう伸び伸びと
たくましく
育っているらしい。



緩やかに少しずつ
世の中も変化していく。





際に関して感じていることが
もう一つある。




月に一度のお墓の掃除を
おばあちゃんから委ねられて
3年になる。


おばあちゃんが孫たちの成長を
ご先祖様に祈りながら
続けてきた
供養や掃除は
見えないながらも
効力を発してきた、
私も信じている。


だから
当たり前のこととして
お墓掃除も引き継いだ。



夫が23代目である
我が家の
ご先祖様のお墓は
この地に移ってきてからのものでも
小さな墓石が周りに
いくつも並んで
広さにすると
6畳くらいあるかもしれない。



真ん中にこれまた
夫のおじいちゃんが建てた
仏舎利塔さながらの
墓石があり
中には没後50年に満たない
骨壺が
並べてある。


この仏舎利塔が
高さにして
2メートルくらいあるのだけれど
とっぺんから球状に
張り出した側面から
床に続く部分が
雨の流れる跡形がついて
非常に汚れやすい。


ちょうどお墓掃除を受け継ぐ前に
その仏舎利塔を
7年ぶりに塗装して
黒く霞んだグレーの色から
綺麗なクリーム色と白に
塗り替えられた。


そうなると
なんだか責任重大で、
この綺麗な色を汚したくないと
お墓掃除に拭き掃除を
加えた。


花と榊を変えて
コンクリートの地面を掃除して
仏舎利塔の表の墓前と
外回りを
手の届く範囲で
拭き掃除する。


当然、とっぺんまでは
届かず
私の手を伸ばした所から
床の立ち上がりまで
ぐるりと一周する。



月末に一度の作業であるが
3年経っても
雨の流れる縦長のシミは
ついていない。



さすがに3年目になって

私も、うーむと唸る。

仏舎利塔に向かって

「君も頑張ってくれてるのだね」

と、声をかける。



足の関節を悪くして
半年くらいお墓に来ていなかった
おばあちゃんも
このお盆に
お墓参りにきて
驚いていた。


「もう3年も経つのに
 全然汚れてないね。
 月に一度、ふくだけで
 こんなにキレイなままなんだね」


ありがたいことに、
きっとこの場も
応えてくれている

そんなふうに感じていた。



そして
際のことを考えていた時に
あ、もしかしたらと
思った。



量子力学の世界で
最初に聞く
観察者の視線の話を思い出した。



原子が観察者の視線を意識して
動きを変えるという話。



これは私の想像にすぎないけれど


きわを際立たせるのは
何よりもまず
観察者の視線、
そして
触れるという行為。



綺麗に維持したいと
思いながら
拭く、
その行為に
仏舎利塔の際は
周囲からより鮮明に
浮き上がる。


わたしの意識と、
仏舎利塔の意識(原子)が
キレイなままを
具現化してるのだとしたら。



家の中でも
意識しない場所は
時折気づくと
ほこりまみれになっていて
ぎょっとするのであるが



意識しない場所は
際が曖昧になり
朽ちていく、感じがする。



そんなことを考えだすと


やっぱり
全ては
イリュージョンではないか、

と思う。





植物が
言葉かけに答えてくれるように


実は物だって、
景色だって
観察者の視線に
応えているのかもしれない。



忘れ去られた場所が
生気を失うように


意識が全てを
分けているのだとしたら。





昨日と明日の際も 

こことあそこの際も

あなたとわたしの際も



「意識する」



ことから
たしかに
何かが
変化し始める。



 きわ
きは 【際】
もう少しで別の物になる、その物のすぐそば。
すれすれのところ。ある事のすぐ前の時。


トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。