新月によせて
毎日忙しくなっていた。
両親の状況も日々いろいろ起きて
面談があったり、
薬の副作用がでたり
両親と同居している義姉と
毎日のように電話で話したりして。
自営の仕事も
スタッフの家族が
入院されるようなことが起きて
夕方早く帰らなければ
いけなくなり
私もできることはわずかだけれど
夕方数時間
手伝うことに。
そうやってあっちもこっちもと
頭がいっぱいになりながら
春から夏のあの穏やかな日々は
すごいご褒美だったんだなぁ〜
と、
しみじみ感じていた。
ただ
家の中の大掃除もだいぶ
終わっていて
結果的に
忙しいイマになって
掃除を心配しなくても
良かった。
バタバタな日々の中でも
心の中は
意外と静かで
パズルのピースが埋まっていくように
起きる出来事に対して
その時は
大変!どうしよう〜
と、感じても
流れの中で
少しずつ
対応策が施されていくことが
ありがたかった。
そんな日々を過ごしながら
生きていくことは
小さいことも
大きいことも
「わたしがやる」
と、自分の中で
はっきり意識することで
物事の流れが変わっていく
ことを感じていた。
20歳の頃
古いおもちゃ屋さんのおじいさんの
手相見がとても当たると
聞いて
友達3人で見てもらいに行った。
当時の悩みは忘れたけど
思いがけないことを言われた。
「あなたは親御さんとのご縁が深いから
一生土着民です」
当時も親元にいたから
そんなもんだろう〜と
思っていたけれど
娘の中で私だけが
地元で
姉も妹も県外に嫁いでいったことを
思えば当たっていた。
何度も行き来している私を見て
両親は
「あなたにこんなに世話になるとは
申し訳ないね。
ありがとう」
と、伝えてくれる。
以前はこういう台詞を言われるのも
苦手だった。
私しかいないから仕方なくて
やってるんだから、
と思っていた。
でも認知症の検査を受けていた父の
ドクターの質問に
答えられず、
思い出せないことばかりに
苦渋する姿を
目の当たりにして
いろんな感情を飛び越えた。
「イマ、目の前の両親のために
できることをやろう」
そう思えた。
同居している兄夫婦は
2人とも教師で
日中の時間は動けなかったし
電話もままならなかった
両親の状況が
だんだん悪くなっていきそうな気配に
「私が連絡係をするから」
と、窓口をかってでた。
こまめにケアマネさんと
連絡を取り合うと
あれよあれよ、と
物事が決まっていった。
担当するクリニックでも
「連絡先はどなたにされますか?
確実に連絡がつく方に」
と、言われると 私しかいなかった。
「私です」
そう、はっきりと応えると
相手の対応が変わってくる。
安心されるのだ。
しっかりと目を見て
「よろしくお願いします」
気持ちが通じる。
そして
姉妹にも伝えた。
「私ができることを
やるから
離れている自分が
何ができるのか
自分で考えてね。
遠くにいる1人娘だったら
どうするのか。
なんと言っても1番大変なのは
一緒に暮らす人だから
離れていても、帰れる時は
帰ってね。
少しでもホッとできる
時間を作ってあげて」
みんながそう思えば
やれることは
いくらでもある。
そうやって動き出すと
連携ができていった。
義姉も以前にも増して
家の中での両親の環境を
整えてくれていた。
わたしが
一歩だけ前に出たら
いろんなことが動きだしていた。
仕方なくやるより
ずっと ずっと
心地良かった。
また、
新しいわたしを
見つけた気がした。
なぜか
小さい頃から
早く歳を取りたい、
と思っていた。
何もかもの体験を終えて
遠い目をして
縁側でお茶を飲んでいる
おばあちゃんに
早くなってしまいたい、と。
生きていく大変さを
もう充分に知っていたように。
けれど
ようやく
ここにきて
50代を半ばを超えて
「生きていく大変さ」 から
逃げようとしないことが
「軽やかに生きていく」
ことだと思えるようになった。
わたしの庭
わたしの家
わたしの子供
わたしの夫
わたしの両親
わたしの義父母
わたしの姉妹
わたしの義姉妹
わたしの友人
つながっているその手に
わたしがイマできること。
無理をし過ぎず
心地よく
強く意識しなくても
主語を「わたし」にすることで
暮らしかたも
生きかたも
変わりつつあった。
「想いを残すこなく軽やかに生きる」
2020年12月15日
射手座の新月に
わたしに宣言してみた。
冬至まで1週間
家の中も
年賀状も
あと一息。
年末にこんな状態は
初めてだった。
新しいわたしは
すでに生まれかけている気もした。
大掃除を終えてから
廊下から見る庭も好きになっていた。
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