今さらですが。  「君の名は」

2016年公開されたこの映画の
CMが流れると
なぜか次女が鳥肌が立つ〜、
この映画、絶対見なきゃと言う。


次女の実力試験が終わった後に
早速2人で見にいった。

CMで聴き慣れた音楽だけで、
期待感が高まり
映画の冒頭の入れ替わりの
話の展開にどんどん
引き込まれていく。

しかし途中から、
徐々に内容が複雑になり
混乱してくる。

1度見ただけでは
理解しづらく
パンフレットを隅々まで読んで 
ようやく物語の内容を
理解した。

物語を理解した上で
再度観に行った。
アニメなのに〜と、自分で
突っ込みながら。

なぜこの映画がこんなに
気になったのか。

1つはパラレルワールドの
物語だからだ。
パラレルワールドの物語が多い
村上春樹の小説も好きだ。

3年の時空を超えて
入れ替わりを体験しながら
いつのまにかヒロインの
三葉に惹かれていたことに
気づいた瀧は
記憶を辿りながら
彼女を捜しに行くと
テイァマト彗星の落下によって
三葉も
街ごと犠牲になったことを知る。

なんとかその事を知らせようと
入れ替わりの時に体験した
宮水神社の御神体のあった
祠にたどり着く。
三葉の口噛酒を口にすると
再び
時空を超えて
彗星が落下する前の
三つ葉との入り代わりが
起きる。
テイァマト彗星の落下直前に
三葉や町の人たちを救おうと、
懸命に走り回る瀧。
どう町長を説得したのか
は明かされないまま
話しは進む。

数年後
生き延びた
三葉と瀧は東京で
再会する。

再会した2人は
記憶の中に焼き付いた
お互いの顔を
知っている筈なのに
名前を思い出せない。

いろんな要素が
せつなさを加速させる。

この映画が大ヒットした理由は
もどかしさや、切なさと共に
2人が出会わなかった人生と
出会ってからの人生の
パラレルワールドの移行に
多くの人が共感するものが
あったからではないか。

なぜ3年もの時を超えて
入れ替わりが起きたのか。
テイァマト彗星が
落下した街と
落下しなかった街。
瀧が果たした役割。

もしあの時、あの場所で
あなたとと出会わなかったら。

それは恋愛だけでなく、
いろいろな人との関わりの中で
自分の人生が大きく変わった
分岐点のシーンを
誰しも一度くらいは
体験しているのではないか。


そして
こんな考察を見つけた。
この考察を読んで
物語の2人だけでなく
現実の人との出会いについても
考えさせさられた。


後日この考察をもとに本を出版された
大学で哲学を研究されている
半田広宣さんの考察である。

抜粋と要約なので、
わかりにくいかもしれません。

【考察】『君の名は。』
量子論や神話で見えてきた隠された意味とは?

『プラトンの『饗宴』っていう
   対話集の中に出てくるある話によると
   人間はもともと自己と他者が
   背中合わせでくっついた一つの生き物
  (アンドロギュノス:両性具有者 )
   だった。
   だけど、人間があまりに
   強大になりすぎたので、
   神はこのアンドロギュノス的人間を
   二つに切り裂いて、引き離してしまう。
   それによって人間は
   自分の欠けた半身を求めるようになり、
   そこに「愛」が生まれたのだ、と。
 
 君の名はの瀧と三葉の
 かってひとつだった
 失われた半身を求める
 物語だ。
 
 この映画の
 テイァマト彗星の落下も
    元はひとつだったものが 
    2つに分けられていたことを
    シンボライズされている。

   人間にとって
   一番の対立物は
   哲学の世界では
   自己存在と他者存在。

  そしてそこに一葉婆さんの語る
 「むすび」が
 時間の象徴として編み込まれており、
 自己と他者を切り離す時間と
 結びつける時間がある、と
 表現される。

 本来時間には
 現在の瞬間が常に過去になる
 直線的時間と
 時間の流れの外にある
 人間の意識の中にあるのが
 純粋持続としての時間。

 直線的時間には表の自分が
 持続的領域には無意識の裏の自分が
 住んでいるとしたら
 その仕組みを見出せば
 今までの自我を超えて
 自分の檻から脱出できるのでは
 と、考えられた。
 そして無意識の先にほんとうの
 他者がいる。
 つまり、持続の仕組みを見出すこと
 自己と他者の合一を果たすことができる。

 つまり、『物質意識 
 (=幅=ハバ=八岐大蛇・マルドゥク)』
 によって自己と他者に
 分けられてしまった世界を、
 『純粋持続』(霊魂)によって
 再び結合させようということを
 シュメール神話もプラトンも
 日本神話も
 言及している。』

太古の昔から
かっての失われた半身である
自己と他者の合一が
人類の大きなテーマであり、
そして持続的領域の時間の中で
無意識の自分の先に他者と
出会うことで
合一を可能にすると。

この小難しい考察を読んで
むむむと思った。

     失われた半身を求めながら
     愛という名のもとに
     実際には自己存在と他者存在に
     悩むのもまた人間なのである。


瀧と三葉が背中合わせでくっついた
1人の人間が切り離された2人で
時間の流れの中で
無意識の純粋持続の時間の中で
自己と他者として
出会うことで
入れ替わりが起きていた。

それは彗星の落下による
街の消滅を避けるために
三葉のいのちを救うため、
何代にもわたり
この日のために
準備されてきた
壮大なドラマだからこそ
映画として成り立っている。


でも実は事の大小は別にして
わたしたちの日常にも、
こういうことが
同様に起きているのではないか。

失われた半身が
あなたのパートナーだったり、
子どもだったり、
友人だったり、
強い絆を感じる人だとしたら。

2人が出会うために
あらゆるパターンを
無意識の中で
繰り返し起こしているのだと
したら。

このバスに乗る、
信号が青から赤へ、
コーヒーを飲みに立ち寄ったカフェ、
いつもの本屋、
この角を曲がる、


そんな小さな選択を
繰り返す毎日の中で
ある目的に沿って
無意識の中で
失われた半身を
見つけるための
出会いのタイミングを
繰り返し
試行されているのだとしたら。

その選択を何に任せれば
どう動けば
その出会いにたどりつくのか。
または気づけるのか。

それは自分自身の
心の声、つまり直感こそが
そのガイドではないか。


そして時間というキーワード。
直線的な時間に
惑わされず、
前か後かではなく
出来事の流れを
見る、感じる視線。

生まれてくるときに
自身で握ってきた
ブループリントに沿って

時には回り道をしながら
立ち止まり、
また必要な人たちに出会い、
道を整えて
進んでいく。

時間を絶対的なものとして
捉えることなく、
無意識の自分を
時間の外に置くことで

失われた半身である
自己の先の他者と
偶然のようにして
実は網の目を編むように
タイミングを
合わせているのだとしたら。


そこで、ようやく出会えた2人から
今度はかっての半身同士の
背中合わせの2人の
自己と他者との合一が
テーマとなる。

合一、これは統合とも融合とも
言える。

背中合わせの2人が見ている世界は
実は全く違うものかもしれない。
そしてあまりの違いに
衝突したり、
見えていない物に
嫉妬したり、嫌悪したり
してしまうかもしれない。

でもそれは
背中合わせだからこそである。
自身で見ることができなかったもの
見たかったものだからこそ、
相手に見てもらっている、
見せてもらっている、

そう意識に落とすことが
できたら。

今見てるその半身の姿を
自身がどう捉えるか、
どう感じているか。

相手の中に自分を見ている、
と気づいたときに

自己と他者の合一、統合が
起きていく。

それがよく言われる
「あなはわたし」であり、
鏡の法則なのでは。


あなたが嫉妬したり
嫌悪してしまう
その相手の一面は
わたしの中の
わたしの一面である。

嫌悪する他者は
嫌悪する自己なのである。

他者を許すことで
自己を許していく。



2019年の12月31日から
2020年1月1日にかけて
こんなこんがらがった糸を
少しずつほぐすような事を
考えていた。

お正月を前に久しぶりに
全員揃った家族の

相変わらずのマイペースぶりに
呆れたり、
怒ったり、
笑ったりしながら

このひとりひとりに見える姿が

全部、わたし。

と、無意識のわたしが
わたしに告げている気がしている。



2020年

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。























トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。