レジスタンス (遺伝子への抵抗 笑)
写真はイメージです 笑
剥製のワニちゃんです。
お友達のお家の断捨離で
爬虫類好きの夫のもとに
やってきました。
迫力満点です。
なぜこの写真かと言うと
噛み付いてしまったから。
この歳にして。
(言葉でだけど)
高齢の父親に。
でも、
後悔はないし、
心の中にしこりも
なくて
むしろ
スッキリ。
この出来事はきっと
私も含めて
父の家系に続いてきた
支配する遺伝子の
呪縛の解放になったんじゃ
なかろうか、と思う。
きっと、
たぶん。
父は教師だった。
父の母も教師だった。
子どもの頃
夏休みに父の実家に帰省していた。
広島から更に遠い
山沿いの村だった。
その家は築200年くらい
と聞いていた
茅葺の古い家だった。
サッシなどどこにもなく
障子と雨戸が庭と家屋の
仕切りであり、
和室の周りは
外廊下である。
屋根は廊下の先まで伸び
風がよほどひどくなければ
雨が降っても家にふりこむ
ことはない。
柱は黒く光り、
畳の部屋ばかりだ。
外に面さない部屋に
仏壇があり
その部屋は薄暗く
近寄りがたかった。
夏しか帰省しないので
この家が冬は
どんな景色だったのかを
全く知らない。
恐ろしく寒いのではないかと、
想像はつく。
そんな古い家と共に
元教師のおばあちゃんは
威厳を保っていた。
いつからか知らないが
山の中にぶどうを作り
育てていた。
その作業のせいか
腰は曲がり、
今のおばあちゃん達の
年齢と比べればずっと
老けて見えた。
けれど眼光鋭く
子ども心に厳しい人だと
怖がっていた。
そんなおばあちゃんが育てた
父も厳しく
小言が多く、支配的だった。
ちゃんとしろ、
きちんとしろ、
が口癖だった。
そして、禁止事項や
条件づけが
多かった。
子ども時代は本当に
窮屈だった。
兄弟も多かったし
ある程度ルールは
必要だったけれど
高校生になっても
大学生になっても
大人になっても
門限やら
なにやらで
縛られていた。
それでも
高校生くらいまで
父のルールに
そんなのはおかしい!と
向かっていたが
余計に叱られた。
大学生になったら
戦うのもバカらしくなり
嘘つきに徹するようになる。
でも心の中では
なぜ、
わざわざ
こんな嘘を
つかなければ
ならないのか
と
思っていた。
だいぶ大人になり
ようやく結婚して
親になったら、
わたしも十分
口うるさい管理者に
なってしまった。
この呪縛は
遺伝子のなせる技なのか
耳が覚えているからなのか、
なぜ同じセリフと
同じ反応になるのか
自分でも
わからないけれど
自分でも
繰り返したくないのだけれど
同じ叱り方を
条件づけを
してしまっていた。
幸いなことは
そんな叱り方に
我が家の子どもたちは
全然負けなかった。
父親(夫)が
子どもたちと
一緒になって
反抗(茶化)していたせいも
あったのかもだけれど。
誰も言うことを聞かず
あの
おばあちゃんのような
威厳は全く
保てなかった。
おばあちゃんの威厳は
時代や環境の
厳しさから
身についた
芯の強さでもあるから
かなうわけなかった。
子どもたちは
夫の遺伝子が強いのか
自由人で
小言を言ったり
説教をしながらも
子供の言い分を
聞いてしまうのはいつも
わたしのほうだった。
だんだん、
この小言に意味がない、と
思いながらも
何か言わずには
格好がつかず、条件をつけたり
かろうじて優位に
立とうとしてみた。
でも、くじかれてばかりいた。
実家に帰ると
いいおじいちゃんに
思われたいのか父親は
孫に対しては
口当たりは
だいぶ柔らかくなっていたが
わたしに対しては
子どもたちが自由すぎるのは
甘すぎるんじゃないか、
と言っていた。
だんだん歳を取って
病気をしたり、
手術をしたり
その付き添いで
昔話をたくさん聞いたりしたら、
大変な想いもいっぱいしていて
父親への子供の頃からの
不満はいつでも胸にあったけれど
もう飲み込んでもいいかな、
という気持ちにもなっていた。
ところがだ。
昨年、実家の母の右手の腱が切れ
痛みで包丁が持てなくなった。
料理上手の母だったが
年齢と共にできないことも増え
ついに包丁が持てなくなった。
兄夫婦と一緒に暮らしていたが
2人とも共働きで
日によっては
帰りも遅く、
食事作りが追いつかず
大変そうにしていたので、
週一程度
食事を届けることにした。
すると、
月一くらいで会ってた時は
感じなかった
父の日常の言葉に
なぜかカチン、カチンと
くるのである。
父は自信過剰なところもあり、
自分のことは棚に上げて、
なんだかチクリチクリと
否定されるのである。
おまえはおっちょこちょいだった、
とか
思い込みが激しいから
もっと慎重にした方がいい、とか。
まるで子ども時代が
戻ってきたかのように
注意してくるのである。
なんだ。
この不快感。
高齢だからと労って、
飲み込んできた言葉が
むくむくと
浮かんでくる。
ちくちく言葉って
テレビでも一時期言われていたが、
まさに
ちくちくと針でつつかれる
感じがするのである。
食事を届けてまで
なぜこんな不快な気持ちで
帰らなければいけないのか。
秋になった。
次女の大学受験前で
慌ただしくしていた。
次女も慣れない小論文を書くのに
苦戦していて
大変そうだった。
つい父親の前で、その話をしたら
かっての教師魂に
火をつけてしまったらしく。
次女にアドバイスすると、
電話をかけてきた。
そして新聞の切り抜きやら
自分が下書きした
文章をFAXで流してくるのだ。
なんだかわたしが子ども時代に
引き戻された気持ちになった。
次女は普通に対応していた。
「ありがとう。読んでみるね」
そもそも、おばあちゃん子なので
お年寄りには
普段の鬼娘ぶりを一切ださずに
優しい孫娘を演じる。
そんな娘をよそに、
わたしが反応してしまうのである。
「そこまでしないで。
手を出しすぎないで!」
と。
その反応に
また父親が反論する。
「何十年もそういう指導を
したきたんだから、
アドバイスしてるだけだ。
大事なところはおまえには
わからんだろう」
だんだん戦闘態勢になってくる。
そして受験の日に
わたしの中で怒りが
ピークを迎えた。
次女が試験を受けてる最中と
終わってから
3件の不動産屋さんをまわり
物件を紹介してもらい
何件も見せてもらって
予約をすませた。
受験先から、無事に終わったと
両家の祖父母に
報告の電話をした。
住むところも
不動産屋を回って
一応予約もしておいたと。
すると、また
「ちゃんと安全なところを
選んだんだろうね?
おまえはおっちょこちょいだから
ちゃんと確認しないとな。」
と、言われた。
カチンを通り越して
ゲンナリした。
冷たい口調で
早々に電話をきった。
その夜はその言葉が頭の中で
繰り返されて眠れなかった。
自分でも不思議だった。
なぜ、今になって
こんなに怒りが
わくのだろう。。
大人気ないではないか。
いつもの、
理屈ぽいおじいちゃんの話
じゃないか。
一生懸命、自分の気持ちを
なだめようとしていた。
受験先から戻ってきても
フツフツと
思い出しては
もやもやする。
こんなに気持ちが長引くのは
はじめてだ。
私の不快感を
伝えようとと思った。
お土産も買ってきていたし、
食事も届ける準備をした日、
深呼吸をして
実家にもどった。
おじいちゃんに、
お土産を渡しながら
「椅子にすわって。話があるから。」
と言った。
「なんだ、怖い顔して。」
と、少し不安げに笑いながら
おじいちゃんも座った。
そしたら、もう止まらなかった。
「この前、不動産屋で物件を
さがしてきた日に
わたしに
ちゃんとさがしたのか?
と、聞いたよね。
その不動産屋を捜す時の
『ちゃんと』に関して
あなたは『ちゃんと』の内容を
説明できる?」
と、聞いた。
この言葉に関しては
子どもたちに
言い続けてきた反省もこめて
父にぶつけた。
すると、父親は
「え、え、、と。
ちゃんとの内容かい?
んー。ちゃんと。
なんだろうね。
安全とかかな。。」
いきなりの言葉に
目を白黒させた。
「あなたがよーく使う
ちゃんとって、そんなもんだよ。
具代的な指摘もないのに
いつもいつも、ちゃんとって
言われてきたの、
子どもの頃からだよ。
ちゃんとの内容もわからないのに
ちゃんとしなきゃいけなかったんだよ。」
「あの日、わたしは朝の9時から6時まで
一日中不動産屋と物件さがしをして
実際に見て回って、
どこが1番
道路が暗くなくてとか、
安全かとか
いろいろ考えながら
見て回ってきたのに
『ちゃんと見たのか?
おまえはおっちょこちょいだから
確認したのか?』
って聞いたけど、
それ以上に
何を確認して、何をちゃんと
すればよかったの?」
「おまえはおっちょこちょいだから、
とか、
意味もない
『ちゃんとやきちんと』は
言葉の頭につけるのは
常にわたしを否定しているのと
同じなんだよ。
ちゃんとできてない「はず」だから、
ちゃんとしろって
言ってるんでしょうから。
そもそも、わたしはいくつ?
あなたが50代の時に
親からおっちょこちょいだから
やることに気をつけろ、
って言われたことある?
ああしろ、こうしろって
指図されたことある?
どんな気持ちになるか
考えてみて。
親だから、心配だからって
そんな言葉を常に言い続けるのは
子供に甘えてるだけだよ。
他人の大人にそんなこと言える?
そんな言葉、もう聞きたくない」
と、一気にまくしたてた。
父はまだ、目を白黒させていた。
父だって意識せずに使ってきた
言葉だった。
ようやく口を開いた。
「そんなふうなつもりで
言ってたわけじゃなかったけれど。
でも、おまえがずっと
そんな気持を感じていたのなら
悪かった。。
今はたしかに大人だし、
そんな言葉はいらなかったな。
いつも頑張ってると、
思っているのに
なんでか、そんな言葉を
言ってしまってたな。
子供の頃はおっちょこちょいだし、
言わないと仕方なかったけどな。」
最後のその言葉に
ひっかかった。
「ちがう。
ちがう。
子どもの頃も、
イマも、
わたしはずっと
わたしでよかった。
わたしのままでよかったんだよ」
心の中の叫びのように
言葉が飛びでた。
喉の奥で引っかかっていた
何かが
言葉と一緒に
ゴロン
とはずれた気がした。
『わたしでよかった』
わたしの口からでた
この言葉が
わたしの体の中で
ひびいた。
そうか。
この言葉を
わたしがわたしに
言いたかったんだ。
シンクロちゃんのおかげで
長女のありのままを
認めよう、と気づいたのに
わたしのことは
まだ忘れていた。
わたしもわたしで
よかったんだよ、って
わたしのなかに
言って聞かせたかったんだ。
父親の言葉をとおして
わたしが気付くために
これもまた
きっと
わたしが起こした出来事なんだ。
圧力鍋の蒸気が抜けるように
シューッと
怒りが抜けていく。
父がポツリと
「そうかもしれんな。
必要以上に言い過ぎたかもしれん。」
と、言った。
そして心細そうに
「最近、血圧も高くて
一度梗塞を起こしてるから
次は
死ぬかもわからんしね。
そういうことばかり、言ってたら
いかんな」
と、気弱な老人ぶりをアピールしたので
きっぱり、言った。
「それもよ。
心配したって、死ぬときは
死ぬんだよ。
だからね、心配なんて
意味ないんだよ。
それよりね、
心配するよりね、
信頼してよ。
人も自分のことも。
シンパイよりシンライ。」
気弱な老人が通用しなかったから
苦笑いしながら
父もこう言った。
「ああ、そうか。
心配より、信頼か。
たしかに、そうだな。」
緊張感がほどけていった。
そして
今までどおりの
父娘にもどっていった。
この歳になって
まさか
ここまで
反撃をするとは。
自分で自分にびっくりしていた。
まだ少しドキドキしながら
帰り道の車の中で
繰り返してみた。
「わたしはわたしでよかった」
もっとちがう、
わたしになりたくて
いろいろなことをやってみた。
それなのに
『わたしのままでよかった』
に、たどりついた。
たったそれだけの言葉なのに
口に出すたびに
わたしの心が 軽くなっていく。
家に戻って見つけた
青い鳥のように
見つけたい、わたしは
わたしの中にいた。
おかえり。
おかえり、わたし。
わたしのままでいたかった
小さなわたしと
わたしが
重なって
一つになった気がした。
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