受けとるということ


連休の間も
STAY HOMEで過ごしていて
何にも追われない時間の
ありがたさを
しみじみ感じた。


忙しさや慌ただしさの中では
見えない
聞こえない
気づかない


心の空白が生まれるときの
ゆるやかな時間の
貴重さを知る。





5月の爽やかな風に
庭の木々があまりにもそよそよと
吹いていた午前中、
いつのまにかサンダルを脱いでいた。


木陰の庭石に座り
裸足で地面に足を置いた。


ひんやりとした冷たさとともに
土の湿り気も伝わる。


ああ、
気持ちいい。



庭の石や小石をはき集めた
意味が今わかる。


少しも危ないものはなく
しっかりと地面を
踏みしめていた。




空を見上げると枝葉がゆらゆらと
太陽の陽射しを散らし
風を感じる。



ひんやりした足元から
地のエネルギーが
染みわたってくるようだった。


ただ在る、

充足感が
身体の中に満たされていく。


 
小さな蟻が忙しそうに
動き回っていた。




そして
座っていても
新しく
伸びてくる
草芽のチェックを怠らない。



すっかり
草取りおばさんに
化していた。


それも良し。


土の香りを纏うのも
素敵ではないか。


わたしの中の
「良し」
が、わたしのルールになっていく。

それがなんとも心地良い。
 





「お母さん、
 ◯◯がいなくなって
 淋しがってはなさそうね」


連休の最終日に顔を見せに来た
息子に言われて、ハッとした。

「あ。
   そうだね。
 行ってしまって、3日間くらいかな。
 いなくなったな〜ってしみじみしたのは」


もしや心配してくれてたのかな。


不思議なもので
息子の気遣いは
娘たちよりちょいと嬉しい。



なんだろう。
3人目の次女の旅立ちですら
深く淋しさを感じずに
日々を過ごせているのは
自然の中の暮らしと
毎日在宅の夫とのヨガや
ネムちゃんのおかげなのかも
しれない。




その息子にも可愛らしい彼女が
できたようで。


春のある日にお目にかかった。



可愛らしい彼女の存在は
あの口の悪い息子を
いつのまにか


優しい大人男子に
変えつつあった。



息子は
学校が休みのこともあって
2週間に1度は
地元の家に顔を出すようになっていた。


一番喜んでいるのは
おばあちゃんで。


わたし達親子が市内にいる間、
なかなか孫達の顔を見れず
このまま地元に戻らなくなることを
心配していた。


でもこれもまた567のおかげで
以前よりずっと頻繁に
孫達にも会えていた。



そんなおばあちゃん。


時には良かれと思ってが
強すぎて
なんでも勧めすぎる時がある。


私も夫も
またですね、という感じで
ハイハイとその勧めに応じず
その場をかわしてしまうことが
あるのだが。



ところが、

ところがだ。



息子が
おばあちゃんの強い勧めに


それは
それは
優しく
応じて見せた。


今まで
わたしや夫と同様に

ハイハイとかわしてきて

時には後からこっそり
「ああ言われるの苦手だ〜」
と、言ってた息子がだ。
 

すんなりと
その強い勧めに応じて、

その後に

「おばあちゃん、
 とても気持ち良かったよ。

 ありがとう。」

と、爽やかに言ったのである。


その「ありがとう」の爽やかぶりは

「だれ、このセリフ?」


と、わたしが振り向いたぐらいだった。


おばあちゃんの嬉しそうな顔も
忘れられない。



息子がこんなふうに
優しい笑顔でお礼を言ってることに


なぜか敗北感を感じた。


あとで、

「あんなに爽やかにお礼まで
 言えて
 大人じゃん」

と、感心して伝えると

 「そのくらいの孝行はしないとね」

と、笑った。


たしかに息子は、
おじいちゃんにもおばあちゃんにも
目の中にいれても痛くない、
喩えそのままのように
可愛がられて育った。



それでも中学、高校ともなると
家族自体が煩わしくもなるし
まだまだ大学生でも
そんなもんだと思っていた。



ところが
息子は大人になっていた。


素直に優しさを現す。


それこそが
大人の証ではないか。




もし息子が
彼女の存在でこんなに優しく
なれたのだとしたら
感謝しかなかった。



今からの人たちには
かなわない。


そう思った。



心地良い敗北感だ。



従順にしたがっているようでも
どこか肩肘をはっていた。



ヨガをしながら
身体のあちこちの硬さに
踏ん張ってきた自分を
感じる。


その強張りに、
もう、いいんだよ。
頑張らなくても大丈夫、
と心の中で声をかけながら
息を吸って〜吐いて〜と
力を抜く術を試みている。


それでもなかなか難しい。



ところが
子ども達はいとも簡単に
自分の殻を脱いでいく。


うらやましいほどに
あざやかに、

学びや体感を
新たな上着として纏っていくのである。



でもこうして、
次の世代が
軽やかに生きていくために


わたし達の世代が
頑張って、踏ん張って


その前のおじいちゃんやおばあちゃんが
もっと大変な時代を
歯を食いしばりながら
生き延びて


そうしてそうやって
ずっと命の螺旋を繋いできたのだと
したら

頑固さも強張りも
したたかさも
 

ちゃんと
意味があった。



それぞれの世代が
培ってきたものを



バトンを繋ぐように渡していく。



渡す、


受けとる。



ただこれからの

受けとるということは


決して同じように
生きることを
強いられることではなく


そこに至る道のりの大変さを
詮索したり 
忖度するのでもなく


そのいのちを
愛を


ただ、つないでくれて

ありがとう。 


と、感謝の眼差しを向けること。




それだけで
良かった。





もう

反応や
反発も


いらないものは
脱ぎ捨てよう。



そうでなかった時代から

そのままで良い時代に
変わったんだ。



昔のように
かまえたり
耐えたり
頑張ったら
背伸びしたりして
生きる必要はないんだと



我をはることなく
軽やかに生きていく
次の世代に
教えられていく。




それが令和の時代。


「和たらしむ」


新しく生まれた
角のない和の時代。


小さな尖もなく
サラサラと


流れるように
生きてみたい。


新緑の5月
何もかもが新しく薫る。





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必要な方に届きますように。

トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。