土に還る
毎日の暮らしが
のんびりした感覚になって
気づいたことがある。
わたしが庭に出て
パトロールよろしく
枯れた枝葉を集めて
捨てたり、
密集した葉を
すいたりする作業を
していると
しゃがんだり、
ハサミを使ったり
ある一部はこったり、
疲れたりしてるのだけれど
身体のエネルギーは
高まっていく。
どうやら
土だけでなく
樹木や草花からも
エネルギーを
いただいている。
一方的に世話を焼いている
気になっていたけれど
インフィニティ♾の
循環の作用に
感心する。
植物に触れる、
土に触れる、
そんな言葉をあえて
使わなければならなくなるほど
わたしは土や草や木と
離れていたんだなと
改めて思う。
今、毎日のように
庭木や草や地面に触れていると
不思議なほどに
心の中が安定しているし、
身体も整ってくる。
こんなにも
自然がもたらす効果が
大きいとは
言葉では知っていても
体感してはいなかった。
コロナの自粛の期間中、
賑わっていたのが
ホームセンターだと聞いた。
仕事ばかりしていたお父さんたちも
最初は時間を持て余して
しぶしぶと草を抜いたり
剪定されていたのかも
しれなかった。
でも
体を動かす爽快さとともに
土や植物のエネルギーで
心と身体の不調まで
洗い流されたように
すっきりしていく。
そうなると
更に庭仕事が
楽しいものになっていく。
たしかにゴールデンウィーク後の
ホームセンターも
大賑わいだった。
みんなが土に触れる恩恵を
同時期に体感しているのも
コロナの自粛のおかげで。
神経の疲れも
倦怠感も
庭仕事などで
少しずつ改善されていくと
少しの不調なら
病院に行くより
外に出て、
深呼吸して
土や植物に触れることで
身体を整えることも
可能なんだと
身体が気づいていくのでは
ないかな。
そんなことを
考えていたら
さとうみつろう氏の
こんな記事を見つけた。
この記事を書かれたのは8年前だそうで、
最近知人の方より
「人間は、土に還る存在だから、
必ず人生のどこかの時期で
無性に土にさわりたくなる
時期が来る」
と、言われ
さとう氏も、8年前に同じようなことを
書いていたな、と再掲されたものだ。
このブログによると、
人間の身体は
父である水と
母である土とでできている。
だから、土に触れなさいと。
このコロナの発生が起きた時期に
皆が
することないから、
と言う名目で
土に触れはじめた。
じつは同時にみんなが
コロナに対して大きな不安を
持っていたのではないかと
思う。
そして母である土に
触れていくなかで
なんとも言えない
安心感を得る。
不安を土が吸い取っていく。
そんな作用が
起きていたのでは
なかろうか。
マザーアースと呼ばれる地球に
同じ原子でてきている
私たちが表面を覆う
土や草木に触れることで
不必要な心配に飲み込まれる
ことなく
自分の中心に
母なる地球の核に
つながっていく。
予期せぬ大きな出来事が
みんなを土に還していく。
そして
そういう時間が
持てるようになると
人は小さなひらめきが
増えていくような
気がしている。
息子も長い休みの間に
ゆっくりと
食事を作ったり
ウォーキングをするなかで
学生でありながら、
起業してみたい、
と思いついたようだ。
1つの仕事に縛られる
生き方をしたくない。
もっといろんな
体験をしてみたい。
学生のうちだからこそ
失敗してでも
やってみたい。
うーん、
なるほど。
わたし達が若い頃には
考えてもみなかった。
自分の責任の取れる範囲で、
と
注文はつけたが
チャレンジする姿は
見てみたい。
長女もスランプの
長いトンネルを抜け
コロナ自粛の間、
ヒヨコを三羽
育てながら
写生をしたりして
自分なりの画法を
見つけつつあった。
次女は東京で
オンライン授業が始まり
高校で履修していなかった
数Ⅲと格闘していた。
それぞれがそれの場所で、
自分を活かす
自分を生きる
路を
歩んでいるようだ。
コロナ騒動の終焉が
見えても
見えなくても
毎日が
自分の生きた路になる。
ならば心地よく
時に土に還り
自分の中心につながり
小さなひらめきを
実践していこう。
ハーブのプランター
庭の梅でジュース作り
発酵野菜の作りおき
わたしのひらめきは
小さなものだけれど
身体と心に
どう作用していくかを
また日々の楽しみに。
地元の井出の蛍も
ようやくおでまし。
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