闘うことなかれ


なぜか怒っていた。


コロナ関係のテレビを見ていると
ついつい
テレビの識者たちに
向かって
悪態をついていた。


コロナ第二波かの
偏った報道ばかりで
大切な人を守るために
って
綺麗な言葉を大義にして
有無を言わせなくしている。



田舎で感染がわかれば
鬼の首を取ったかのように
叩く人もいる。


その場しのぎの
コロナ差別を説いても
報道が偏りすぎて

新しいマナーを
守らない人は
悪者で


感染した人には
その人に原因があるように
周りは感じてしまう。



こんな風潮を作ったのは
テレビ報道だ。


コロナに関しては
いろんな学者さんが、
youtubeでもSNSでも
データを示しながら
今の状況を示唆されている。

ただ
記者会見をされても
テレビ関係は
スルーらしい。


感染したら大変、という
内容のものしか
放送しないと決めているのだろう。


なんだか
もう、
フツフツと怒りながら


頭、おかしいでしょ⁉︎
と、
テレビに向かって
文句を言っていた。



そういう私を
何度か目にしていた夫から


「そういうの、
 やめたほうがいいと思う。
 言葉悪いし
 聞いてても
 気分悪い」


と、言われた。


半分、
そろそろ言われるかもと思っていた。


わかっているつもりだった。


批判は何も生まない。



ただ私の心の奥底には
報道の
流れを変えたい
理由があった。



そこも夫に指摘された。


「そもそもなんで
 そんなにテレビ批判をするわけ?
 自分がコロナは怖くないって
 思っていれば
 それでいいんじゃないの?
 

 あ、そうか。
 旅行したいから
 周りの反対や自分への
 批判を避けたいわけね」



くーっ。
また痛いところを突かれた。

 
たしかにその頃、
旅行の計画があった。



家族は
ワタシの欺瞞に厳しい。



気がついてはいたけれど

認めたくなかった
自分の本心を
言い当てられていた。



心の中では 

何を言われても行く、

と、決めていた。


何のためにいつも
身体を整えているんだ、と。



でも
一番
恐れていたのは



コロナの感染より



身近な家族からの
反対や批判だった。



正体がわかれば
こぶしの力も抜けていく。



そうか、
ワタシは家族の批判が
怖かったんだ。

 


闘う姿勢には理由がある。


おおよそ
ワタシの正当化だ。


自己の確立と
正当化は
ちがうものたけど、

 
確立に執着すると
正当化に走る。



本来の
自己の確立は

わたしの中の
受容だけで
よかった。




心静かに
決めた事を

まずは
わたしが
受け入れる。




夫の厳しめの眼差しも
おばあちゃんの呆れた表情も


心の中で
手を合わせながら


コロナと無縁の旅をする。



ただただ、意志の力で
そう決めていた。




「わたしの現実は
 わたしの意識で作られている」



という、この言葉は
コロナ渦でも
通用する、と
わたしは思っている。



コロナを恐れて
重症化したらどうしょう、と
意識をそこに置けば置くほど
コロナは近づいてくる。



わたしの世界に
コロナを寄せ付けない
一番の方法は


わたしを信じることだった。





無事に旅を終え
戻ってきて


2〜3日は
家族にも遠目に話をされたり
していたけれど、



不安になる気持ちも
尊重しよう。





コロナが在る世界で

普段では味わえない感情を

いくつも体験していた。





わたしが

わたしで在るために

闘う必要はなかった。



わたしの中心にいて

わたしの想いを強くする時に


わたしという柱を
中心に置いて
わたしの意識を
波紋のように広げていくだけ。



外に向かって

正当性や
正義を

ましてや
真実などと
言葉を羅列して


説く必要はなかった。


どう語っても
ハリボテの鎧だ。




私がわたしの意志を
現実化していくとき、


わたしという柱は


批判や反対に
揺らいだとしても



言い訳や
正論を述べるより

わたしの想いと意志に
理解を求めたい。
 


そして
もっと言えば
わたしの柱が太くなれば


批判や反対すら
起きなくなるのかもしれない。

 

それらは
ある意味
私がわたしの意志に
どのくらい忠実であるかを


試されているようなものだろう。




1日のちょっとした
わたしを生きる時間が

ステップアップしていく時



家族や親しい人たちの中でも

「わたしを生きる」

が、試されていく。



まずは
ただ、わたしの意志を
伝えることから。

 

もちろん、

家族や友人との

積み重ねた
信頼関係は必要かもしれない。



わたしの柱をたてる
瞑想という練習も少々。



そうやって

わたしの意志を
現実に反映できたとき、



わたしの意識が
わたしの現実を
作ったことを


魂の喜びとともに
実感していく。




コロナはある意味、
踏み絵かもしれない。



自由に見えていた世界が
そうでなくなって



人と違う行動をとれば
注目されると、
感じる
その日常の中で



「わたしを生きる」


を、選択していく。

 

それは


わたしの意志を
静かに

ただ
静かに

受けとることから


始まっていく。





闘う姿勢は
恐れのあらわれ。



恐れが
ワタシの中にあって


その恐れが
現実に問題を作っていく。



現実は


私とわたしの
意識の交流が
作りだし


わたしを生きるうちに
問題は問題という枠から
離れていく。



闘うことなかれ。



問題と見えることに
抗うよりも



私とわたしの

意識の交流を

より深めていこう。

トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。