祈りのチカラ
1月に姪の結婚式に参列した。
姉の長女で姪っ子第一号だったので
感激もひとしおだった。
この結婚式にあたり
次女の受験も
ひと段落したので
着物で参列した。
3人の子供が元気すぎて
七五三でも着物を着る余裕も
なかった。
だから
本当に久しぶりの着物だった。
小物の準備のために
デパートの初売り市に出かけた。
販売の方に相談して
いろいろ教えていただいた。
色留袖を着るつもりと、
話していたら、
担当の方が言われた。
「色留袖と留袖ははね、
他の着物と違ってもう1枚
重ねてあるのよ。
正式なお祝いの席に着る着物なの。
かさねがさね、と言う言葉があるでしょう。
着物を2枚重ねて着るのは、
お祝いごとが重なるようにとの意味が
込められているのよ。」
と言われて、
ほーっと感心してしまった。
御祝儀袋の折り方でも
慶事は上向きに折り返されている方を
表に重ねて水引を通す。
喜びは天を向く、
幸せをもらい受ける、
と言う意味が込めてある。
言葉をそのまま体現する文化を
改めて、素敵だなと
思った。
喜びにも悲しみにも寄り添う、
祈る気持ちを
着物を始め
小さなふるまいにも
込める。
今では留袖などの着物は
比翼仕立てといって、
2枚重ねて見えるように
襟や裾だけつけたりする。
時代に合わせて変化していくのも
便利だし、それはそれでよしとして。
その習わしの想いを
知って伝えていきたい、と
思うような年齢になってきた。
日々の
喜びや、幸せを、
習わしを通して
祈り、
意宣りながら、
叶えていく、
そんな在り方をしていけたら。
2020年、大きな変化の年
と言われている。
アセンション、
覚醒、
次元上昇、
いろんな言葉で
この時代が迎える大きな変容を
語られてきた。
わたしがこの言葉を初めて
目にしたのは2010年だった。
2012年に線路が分かれる
動き出した列車に乗り遅れるな、
的な文章を読んで、
「アセンション」
と、聴き慣れない言葉と
心がワクワクする方を選ぶ
という内容に
多少の不安とともに
高揚を覚えた。
そして早10年。
たくさんの天災も起こり、
テクノロジーの進化による
破壊と進化。
破壊と創造、
時代の変容を
目の当たりにしながら
心を大きく動かされ
追いつけない
心の取り扱いに悩みながら
いろいろな経験を通して
わたしが感じた
アセンションは
ワクワクでもなく、
レールが分かれる列車に
飛び乗る冒険でもなく
とても静かで
シンプルな
自己受容だった。
見えないものが
見えるようにもならず
テレパシーで話すことも
できず
予測も予兆もなく
超能力は1つも身につかず
ぱあっと目の前が明るくもならず
派手なことは1つもなくて
ただ、
「わたしはわたしであること」
と、言葉にして体感した。
そのことが
自分の中のアセンションだとは
実は思っていなかった。
でも
2020年の2月22日を迎えた今日、
なぜかそう感じている。
「わたしはわたし」
そこからはじまる。
他人と比べてはため息をつき
人目を気にして後悔ばかり
人を優先してばかりいて
自分がどこにいるかわからなくなる。
息が苦しくてアップアップして
生きにくかった
すべての元凶が
「わたしからズレている」
ことだった。
今そこをようやく抜けて
狭い暗いトンネルを抜けて
日々の中で
1番美しいと思える瞬間が
「気づき」
のとき。
日常のふとした会話の中でも
例えばWSの中でも
わたしが
人が
気づいていく瞬間。
小さな扉が開き
感覚が喜びの振動となって
共鳴して
伝わっていくその瞬間。
ああ、
これが
「波動が上がる」
と、いうこと。
その瞬間の尊さと美しさ。
アセンションの体験も
人それぞれ。
言葉や響きに騙されてはいけない(笑)
かって見たことのない世界でもなく
ありきたりの日常の中に
潜んでいる
小さな「気づき」も
アセンションではないか。
情報だらけの時代だからこそ
「わたしがわたしであること」
に気づいていく過程は
小さなことのように
思えてしまうけれど、
その位置に立った時、
見えてくる世界も意識も
少しずつ、確かに
変化していく。
一つの小さな例えとして
以前からちょっと苦手な方の
SNSを改めて見てみた。
表現のしかたが
好きでない、
と見ないようにしていた。
何も感じなかった。
彼女は彼女のままに
と、思えた。
わたしがわたしのままでいる時、
人をジャッジする
気持ちもなくなっていく。
小さなことだけれど
心のやすらぎとなって
「波動を整えていく」
わたしのままでいる時の
気づきは
かっての
習わしのように
祈りながらでも
意宣りになっていく。
わたしの祈りの
チカラをみくびらず
力強く、たくましく
意宣り
わたしがわたしのままに
願いを叶えていく。
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