わたしとワタシ


地元に戻ってきてからの毎日は
予想どおりのようで
予想外なことも
たくさんあって
驚いている。



予想どおりなのは
することがたくさんあること。


朝、雨戸を開ける。
片側の廊下だけでも6枚の雨戸がある。


最初はぜんぶ開けていたけれど、
滑りも悪いしなかなか時間も
かかるので、
最近は3〜4枚でやめてしまう。

充分明るいので良しとした。


掃除する場所も山ほど。

自営の雑務もある。


掃除に目覚めたといはいえ
一日中掃除をしてるわけにも
いかず
日替わりで
掃除する場所を変えていく。


春だからかもしれない。 
掃除も楽しい。

掃除も、と書いたのは
わたしが自分で
1番驚いている
楽しいことがあって。


地元にいたとき、
憎しみさえ覚えていた

なぜすぐ生える〜

と思っていた
草取りが
今は楽しい。


暖かくなり
5センチくらい延びていた
草を頑張って
取ってしまった。


するとそのあとに伸びてくる
双葉と四つ葉が開き
みんな同じ向きで
空に向かって延びる様子が
なぜか可愛く思える。


可愛いと思いながら
抜いていく。


草の芽が出て双葉とになり、
四つ葉になり、
それぞれの個性の葉がつく。

あたりまえに
草が生える、花が咲き、実がなる
その循環の中に
生きていることを感じさせられる。


例えばこのあたりまえが
あたりまえでなくなるとことを
この10年でたびたび目にしてきた。

現在の状況も然り、
だから
余計にそうなのかもしれない。


あたりまえがありがたい事だと
気づき始めたからか。


そんな小さな草たちの
根も張ってないうちの
するりと抜ける
草取りは快感なのである。


子育てをしていた時は
先延ばし延ばしにして、


嫌々ながら、
舌打ちしながら、
蚊と戦いながら、
やっていた草取りがだ。


春だから? 

虫がいないのは得点が高い。


もうひとつ気づいたことがある。

リビングにいて
窓の外に地面が見えると
とても安心感がある


マンションにいた時は
建物と一緒に空が見えていて
鳥や飛行機が飛んでいくのを
ぼんやり眺めるのも
好きだった。


でも今は
地面が見えていると
しっかりと重力を感じる。


するとなんとも言えず
地球につながっていることを
意識する。


草取りも地につながる
行為なのかもしれない。





本当は地元に帰ることが
不安だった。


仲の良い友達とも会えなくなる。
買い物もできなくなる。
好きなスーパーにもいけなくて、
好きなパン屋さんにもいけない。
カフェでお茶もできない。


地元にはマックとコメダ珈琲しかない。


とにかく
地元には気持ちが
華やぐものがない。


誇れる名店の美味しいお店も
数件あるけれど


日々のちょっとした
華やぎがないのは
淋しすぎる。



きっと戻ったら 


つまらなくて
淋しくて
悶々としてしまうだろう、と。


そう思っていた。


でも
リビングから見える地面と
小さく延びる草たちや、


枯れ木に見える枝から
小さな緑がわき出るように
延びてくる様子や、


ピンクの小さな蕾が
少しずつ開き

小さな桜の花びらの集まりが
一つの小山を桃色に染める様を
毎日目にしていく時



自然の中の
華やぎの美しさに
勝るものはないことに
あらためて
気づかされていく。


知らず知らずのうちに
わたしの中が満たされている。


つまらなくもなく
淋しくもなく
悶々とも
していなかった。



夫が職業病で腰痛があり
朝からやっていたヨガを
いつのまにか
一緒にするようになり、


朝の30分がヨガタイムになり
毎日少しずつ
呼吸とともに
体がゆるみ
 


しぜんと自分の体と
会話をするようになる。


今日はここが痛いね。
硬いね。
昨日より延びるね。


心と体と会話する。


そんな日々の中で

じゃあ、
「戻りたくない、
   引っ越したくない。」

以前も、
「草取りは嫌い。
   庭なんていらない。
   掃除するには広すぎる。」


と、思っていたのは
誰だったのか?

そう思った時、

そう思っていたのは

ワタシの「自我」だったのではないか。
と、感じた。


安心した気持ちで
過ごす日々の中でも
時折現れる

ザワザワとした「ワタシ」がいる。


いつもブツブツと文句を言ってたのは
ワタシ?


わたしの中の
わたしとワタシの違いに
少しずつ気がついて行く。


時折、
わたしだけの時がある。


わたしの中に
スペースがある感じ。


そんな時に
ちょっと不思議なことが起きる。


夕方になり、
洗濯物を入れていた。


庭の木の下の落ち葉が
目に入った。

あそこにもここにも。


ホウキと塵取りを手にしていた。


なぜこんな時間に
落ち葉をはいているのか。


ワタシがそう思うのに
体が勝手に掃除していく。


えええ、こっちもやるの?

わたし誰ですか?
今、わたし誰なんですかーー。

というようなことが起きた。



通りかかった夫が

「なんでこんな夕方に
 庭掃除してる?」

「わたしもわかりませんが。
 どうも掃除させられている。」


その翌日には
庭にばらけている大小の石が気になり


なぜか石やら、
落ちてきた割れた瓦やらを
拾い集めだしていた。


前に飼っていた犬が
庭の隅にあちこち掘っていた穴に
集めた石をいれていく。


いや、こんな穴、
気にしたこと
ないんですけど。


わたし、
何をしているんでしょう。



「この場所に山砂を入れたら」


ぽっとそんな言葉が浮かぶ。


アイリスの花が
青い蕾をつけていた。


そういえば昔は
もっとたくさん生えていて
青紫の花が次々と
咲いていた。


元気すぎる飼い犬が
走り回っていたから
庭の花が昔より
ずいぶん減っていた。


山砂をしいて
青紫のアイリスの花が咲きほこったら
アイボリーの地面に青紫のコントラストが
映えるだろう。

そんな庭の様子が浮かんだ。



アイリスの花言葉は
「希望」


今、必要な花なのかもしれない。


来年か再来年
そんな庭になっていくといいな。





翌日の朝、
夫とヨガをしながら
顔を上げると


夫のおじいちゃんの肖像画と
目があった。


実はヨガをしているのは
仏間だった。

畳の八畳間だから
2人でゆうゆうとできる。


肖像画のおじいちゃんを見て


「あなたでしたか」

と、つぶやいた。


この家を建て、
庭を作り、
盆栽や菊を愛で

夫を目の中に入れても
痛くないほど
可愛がっていた、
穏やかで、ハイカラで
陽気なおじいちゃん。


わたしが
この家に戻り

この家の環境を受け入れて

この家と自然に

同期していくなか


きっとわたしに
教えてくれているのだと思う。


草を抜くのは今だよ。


落ち葉をどかしてごらん。
小石や瓦も拾ってごらん。


庭は美しさを取り戻すよ。


庭は手がいるけれど
手をかけた分だけ

光と影を作り出し

安らぎと調和を
生み出していくよ。


そう教えてくれているようだった。



気がつけば
引越しから
ちょうど1ヶ月。


ようやく暮らしのリズムが
できてきた。



わたしとワタシ。


どちらもわたしであるし、
ワタシを無理に押さえ込む
必要もないけれど、


もしかしたら
わたしの中に
スペースが生まれるとき



今までと少し違う

わたし 

に、出会えるのかもしれない。

アイリスの花言葉
 「希望」
    「信じる心」


トリニティ

回り続ける三つの渦が、 織りなす世界を綴ります。